◆鯛は頭から腐る――大義を見失った日本のリーダーたち
何年か前、官房長官の下に靖国神社の代替施設を作るかどうかに関する懇談会が置かれたことがあった。あの時ただ一人、われわれの学 何年か前、官房長官の下に靖国神社の代替施設を作るかどうかに関する懇談会が置かれたことがあった。あの時ただ一人、われわれの学者仲間で大変筋を通して最後まで頑張ってくれたのが学習院大学の坂本多加雄先生であった。坂本先生は生前、大義という言葉を常に言っていたが、靖国問題はまさに国家の大義の問題である。その懇談会において坂本先生は、普通の学者なら絶対に席を蹴って立つような想像もできないほど大変な状況に面しても、これは大義の問題であるからということで憤懣を抑え、自らの不利益を甘受した。本当に素晴らしい手本を私たちに見せてくれたと思っている。
こんな話を最初にしたのは、大義というものはいつの時代でも国を考える日本人なら常に胸に置いておかなければならない言葉だと思うからである。そこで今日は、何がこの国の大義であり、どういう日本を創るべきなのかということを話したい。
こうした話になると急にあやふやになる日本人が多いが、しかし日本人の根幹には、この国のありように少しでも役立ちたいとの思いがある。そういう日本人の心は変わっていないと思う。ただ、余りにもおかしな惑わされるような社会情勢がある一方、余りにも公に対する日本人の感覚が微弱になったため、物が見えにくくなってしまっている。これが日本の危機であり、これをどう乗り越えていくかという課題が突き付けられている。
もちろん、政治は具体的問題について具体的行動を起こし、具体的結果をもたらすことが大切だが、同時にそうした個々の問題を超えて通底するものがある。その意味での今の日本にとっての一番重要なキーワードは「自信」ではないか。日本に対する国民の自信、あるいは日本の自信をいかに回復していくかが、全てに通ずるテーマだと思われる。その自信というものは精神の問題である。武道では心・技・体というが、国家を考える時もこの三拍子が揃って日本が再出発できることになる。
私は国際関係を勉強してきて若い頃から今日まで、どちらかというと技つまり戦略については色々な視点から考えてきたつもりである。しかし最近、技としての戦略を考える前に、まず国家目標というか「心」の次元での話を求められることが非常に多い。昨今の愛国心論争を見ても、「心」という言葉が持つ今の日本にとっての尋常ならざる意味が浮かび上がってくる。つまり教育の問題、若い世代にとっての人生観や職業観の問題、あるいは国のリーダーにとっての名誉や美徳などに対する感覚の問題等々、「心」の問題を誰かが論じなければいけないところに来ていることを昨今非常に強く感ずる。
特に今の日本ではリーダー層のノブレス・オブリージ、つまり大義というものに対する姿勢が曖昧になっている。鯛は頭から腐ると言われるが、今の日本は特にリーダー層、中堅以上の官僚層の価値観が非常におかしくなっている。今ほど日本の官僚層の価値観や思想、あるいは使命感が崩れてしまった時代はかつてなかったのではないか。欧米先進国の官僚層と比べても、今の霞ヶ関の雰囲気には大変危機的なものを感じざるを得ない。
結局、ベースになる思想が少しおかしい。だから無宗教の国立追悼施設を作るとか、人権擁護法やジェンダーフリー問題などが次々と出てきて、永田町にいる一部の確信犯的な政治家やマスコミが上手く動かしていく。そして多くの国民が気付かないままに色んなことが進んでしまう。先般の皇室典範改正をめぐる有識者会議報告書はまさにそういう流れの中で、国民各層が全く意識しない中で、忍び寄るように変な物がじわっと出てきた。
そうした各論のいずれもが大変深刻な結果をもたらすものであるが、先生方の様々な尽力で辛うじて食い止められている。これを一つひとつ阻止していくことは非常に大事なことであるが、それと同時にそれらの元を絶つための大きな戦略、日本の国を正すための大きな戦略が非常に今求められている。
とはいえ、私は長期的には大きな楽観を持っている。やはり日本人の心という一番ベースになるものは何も変わっていないと思うからである。ただ、それが非常に見えにくくなったり、口にしにくくなっており、人的なものによって遮られ、曇らされてしまっている。しかし、日本の心をしっかり見据えて行けば、大きな楽観が自ずから見えてくる。
◆浮上してきた終戦直後の諸課題
少し具体的な話をしてみたい。経済同友会が五月九日に突如、首相の靖国参拝問題について非常に不審な提言を出した。「経済大国の恥」と言っても過言ではないほど常軌を逸した内容だ。戦後の日本はエコノミック・アニマルなどと陰口を言われた時代も長くあったが、その当時でも経済団体がこのような提言を出したことはなかったように思う。この種の話になると経済団体はむしろ国家的立場を踏まえ、経済人としての誇りを示していた。
では、こんな提言が今日日本の経済の中枢から出てきたのはなぜなのだろうか。多少飛躍した言い方かも知れないが、やはり戦後なるものが最終的に終わる時、腐ったもの、どうしようもないものが表面化し、何もかもが一緒くたに出てくるということである。そういうところに今の日本は来ているのではないか。
首相の靖国参拝問題では、様々な世論調査を見るとむしろ国民の方が目覚めていることが分かる。経済同友会が提言について採決したところ、七十人中十一人の経済人が筋を通したことが報じられているが、これは六対一である。一方、これだけマスコミが大騒ぎし、中国や韓国が激しく反応している中、世論調査では三十数%に対して五十%前後で(参拝支持が)よく保っている。日本人が目覚めつつある徴候がこの数字に表れているように感ずる。その意味でも、日本は今大事な地点にいる。
ところで、こうした議論をする時は、基本の議論をしっかり進めることが非常に大事である。私は文明問題と言っているが、よく哲学者は「国家のトリアーデ」つまり「国家の三本柱」という言い方をする。そもそも国家は何のためにあるのかという問題である。
少し抽象的な話になるが、ヘーゲルは「国家というのは豊かさの体系だ」と言った。つまり経済的に豊かになることが国家の目的だというのである。またアダム・スミスは、市場は治安と国防によって支えられていると述べた。要するに、国家の大義は経済と安全保障だと言われてきた。
しかし、最も大切な大義は何かと言えば、どの論者も声をそろえて価値観の実現だと言ってきた。欧米の場合はキリスト教の共同体が国家になっていったから、これは自明である。価値観を実現するということが非常に大切なのである。ところが、日本人は事挙げしないという美的感覚が文化の特徴としてあるため、価値観をあまり議論してこなかった。しかし今日、日本が直面する問題のほとんどは価値観、つまり日本人としてどう生きるのかという問題に収斂する。教育、安保、外交、靖国参拝、家族、ジェンダーフリー、人権問題等々は、まさしく価値観の問題だと言ってよい。
戦後の日本の政治には、経済復興や高度成長の持続、外交の機軸を日米関係に置くかどうかなど色々なテーマがあったが、これは技、つまり戦略あるいは戦術レベルの問題と言えるかも知れない。戦後はそういうレベルの問題でずって推移してきたが、今は非常に価値観が中心になっている。これは戦後が終わりを迎え、根本から問い直されていることを意味する。だからこそ現在、終戦直後の昭和二十一年頃に戻って考えるべき問題が現実政治の大テーマになっている。
例えば昨年十一月、自民党が憲法改正草案を出したし、また民主党も憲法改正の構想をまとめる方向で議論をしている。この国会では国民投票法案が問題になっている。教育基本法改正や皇室典範をめぐる問題も同じであり、現実政治のテーマがまさしく昭和二十一、二年頃の課題に戻っている。
そもそも皇室典範問題の根底には占領軍の働きかけがあった。つまり昭和二十一年、占領軍が十一宮家の臣籍降下を進めたために今日の皇位継承をめぐる危機が生じたのであって、戦後六十年のつけが出てきた問題だと言える。だから皇室問題は、あの時点に戻って考えなければ本当の答えは出てこない。
仮に有識者会議報告書に則る改正を行い、皇室に民間の男性がお婿さんとして入ることになれば、諸外国の例を見ると、監視機構をものすごく強めなければならない。例えばイギリスの場合、情報部がお婿さんの周辺に監視機構を作り、おかしな影響が入ってこないか、外国の影響を受けていないか等々を全て洗い出して、恒常的に監視し、行動に制約を加えている。それでも、様々な外部の利益が反映されてしまい、王室の中が汚されてしまう。むろん、今の皇室典範にはそれに対する何の備えもない。
一方、教育基本法の改正問題も、やはり昭和二十二年の課題に戻っている。教育基本法は間違いなくCIE(民間情報教育局)が粗筋を作り、それに教育刷新委員会(南原委員会)と称する日本人の教育関係者の集まりが関わった。教育基本法の問題は、これは誰が作ったものだということに最大のポイントがあるが、日教組はじめ多くの日本人は、教育基本法だけは日本人が一定程度イニシアティブを発揮して作った、という神話をずっと信じてきた。というのも、昭和二十年代の東大総長であった南原繁先生――学者の良心と言われたほど神聖視された人物である――が、教育基本法は日本人が占領軍の意向を超えて主導権を取って作ったということを証言したからである。
ところが、最近ワシントンで公開された占領関係文書を見ると、南原繁が全く白を黒と言っていた、一八〇度嘘をついていたということが判明し、「南原証言」は全く崩れてしまった。このように歴史の真実が明らかになりつつある時期に、教育基本法の改正が現実政治の課題になってきた。この符合は非常に劇的な感じがする。
いずれにせよ、憲法、教育基本法、皇室典範の三つは全て外国人が作ったが、従来考えられてきた以上に、何から何まで鍵になることはほとんど占領軍が決めていたのである。そうした事実はずっと日本人の意識に上らずに、秘密にされてきたが、戦後六十年経った今日、歴史の真実が明らかになってきたのである。
そういう外交文書はおよそ三十年経つと公開するが、本当に大事なのは五十年以上経たないと公開しない。一番長いのは百年と言われている。つまり百年経たなければ、それまでは断定は出来ない、結論は下せないということである。
だから大平正芳首相が、靖国参拝をめぐってあの戦争についてどう思うかと聞かれた時、それは後世の歴史家の評価に委ねるしかない、と答えたのは、学問的にも真実なのである。戦争の評価など政治家に下せるわけがない。
◆アメリカの「愚かさ」、アジアの「逆流」
ところで最近、色々なアメリカ人が東京にたくさん来ている。例えば国防次官補代理をしていたカート・キャンベルは朝日新聞のインタビューで、小泉首相の靖国参拝に対して、アメリカは同盟国の立場から日本に注意すべきだとか、日中関係がこれ以上悪化することはアメリカの国益にならない、などとしきりに触れ回っている。この人物は実は民主党のハーバード人脈で、エズラ・ボーゲルなどにも繋がり、どこかで北京にも繋がっている。
こうしたアメリカ人はほとんどが民主党系で、二〇〇八年にホワイトハウス入りを考えている学者もいる。そういう学者が時々日本のテレビに出てきて、最近は遊就館の展示をしきりに問題にしだしている。今年初め、フジテレビの報道2001に出演した時、ジェラルド・カーティスというコロンビア大学の日本学者が登場して、遊就館の展示の問題を取り上げた。また三月にオーストラリアに行くと、やはり「遊就館はなんだ」と言われた。
むろん、こんなアメリカ人ばかりではない。例えばついこの間までホワイトハウスにいた共和党に近いマイケル・グリーンは、アメリカは靖国問題で日本が理不尽に内政干渉されているのを傍観しすぎてきた、もっと日本の側に立つという意思表示をしても良かった、ブッシュ政権は怠慢である――というようなことを述べている。
こうした流れを見ても、アメリカ人はやはり愚かというしかない。意見が分かれ、大事なことほど気が付くのが遅いのだ。つまり今の日中関係は、ユーラシア大陸の共産主義あるいは全体主義が太平洋に溢れ出しているという動きに対して、日本が一人防波堤になって頑張っているという構図である。こうした構図は、実は大正末から昭和初期のアジア情勢にも見られたが、その当時アメリカは大変迂闊にも日本の足下を崩すような行動に出たのである。恐らく昭和初年の日米関係の悲劇はそこに起因する。
むろん、そうしたアメリカの愚かさは、一つのニューフロンティアを求める動きでもあった。しかし、中国共産党などはそこに付け込んで、アメリカ国内に反日世論を作り出し、日米関係を分断した。これがあの時の教訓である。
一方、中国ばかりか、ロシアも最近報道の自由などの面で少し変になっている。韓国はもう完全におかしい。民主主義の後退みたいな現象がある。アジアの民主主義ということで言えば、台湾も少しおかしいところが出てきている。マスコミを中心に大陸の裏側からの影響がうかがえる。中国にはもともと民主主義などはない。
このように今、折角でき上がった日本、韓国、台湾、そして一部東南アジアの民主化や自由などの価値観が逆流を部分的に始めている。これは今の日本が置かれた大テーマの一つだろうと思う。
◆日本はいかに自己主張すべきか――独自性と普遍性の視点
では、こうした状況において、日本はいかに自己主張をすべきなのか。もちろん、憲法や教育基本法や皇室のあり方などの問題で、それぞれの各論を前へ進めて行かなければならない。つまりあるべき憲法改正、あるべき教育刷新、あるべき皇室のあり方というものを声を大にして訴えて行かなければならない。
それと同時に日本の価値観、日本の大義ということで言えば、歴史認識についても日本の立場を外交の中に反映させて行かなければならない。サンフランシスコ講和条約で東京裁判を認めた以上、内容については文句を言いませんという外務省の姿勢、あるいは歴史認識に関わる訴訟や外交の場で、一切の自己主張や弁明をしないという従来の政府の姿勢がいかに国益を損ねてきたか。これは非常に大事な点である。
こうした問題で論争を避けて通ってはならない。なぜなら、それは価値観に関わる問題だからである。そうした価値観には日本の経済システムの良さや日本型スタンダードというものも含まれるが、国際化と言われる時代になって、日本が自己主張をしない中で、日本という国の基本がどんどん崩れてしまっている。
とはいえ、これからの日本の自己主張としては、歴史認識や日本の独自性の主張と同時に、普遍性の主張が大事である。例えば中国が歴史問題を出してきたら、必ず人権や自由という普遍的な問題で対処することが大切である。これは北朝鮮に対しても同じである。 そのためにも、日本文明をしっかり捉え直すことが日本のアジア政策の基本となる。戦後の日本人は言わなくなったが、十九世紀頃から日本文明は世界七大文明の一つと言われてきた。トインビー、シュペングラー、ハンチントンなどは一致して、日本文明は西欧キリスト教文明、イスラム文明、ヒンズー文明あるいは中華文明などの大文明と並ぶ一大体系であると言っている。ただし、日本だけは一国で一文明を成していると。ここに日本のアジア政策の出発点があり終着点がある。つまり、文明が違うのである。
例えばアジアで歴史上元号を持ったことのある国は中国と日本だけである。元号を持つということは、中華皇帝の権威を認めないということで、自分の時間軸を持つということである。つまり、その中でいかに共存するかという問題が出てくるわけである。
アジア広しといえども、対中対等を一三〇〇年間も国是にしてきた国は日本以外にない。日本の文化を遡っていくと、聖徳太子の国書以来、中華世界からの離脱ということがテーマであった。つまり天皇陛下がいらっしゃるから、臣下として日本を扱う国の国書は一切受け取らない。しかし、貿易は国交がなくても出来るから政経分離でやる。政冷経熱がこの国の形であり、むしろ中国に対する対応は政冷経熱こそ常態とも言える。
このように国家としての自己主張を通したが故に、日本の近代というものがある。つまりペリーが来航し、日本は開国して対等な国際条約を西欧諸国と結び、新しい世界に適応できたのである。もともと日本は古代から、「対等者」を予定してきたわけであり、国際関係は対等の共存関係というのが日本の根本哲学なのである。
◆日本の文明史的特徴に刻まれた日本再生のカギ
ところが中国は違う。アヘン戦争に敗れ、アロー号戦争に敗れ、日清戦争に敗れても、絶対に対等を認めない。結局、孫文や蒋介石の革命が失敗に終わるのは、この「唯我独尊」の態度を少し脇へ置こうとしたためである。その結果、中国人民の怒りが下から噴き上がり、それが毛沢東によって利用され今日に至っている。一方、西欧諸国はアメリカも含めて、ローマ帝国以来、単一の共同体を作るか、力の論理だけで行動するか何れの哲学しかない。
その中にあって日本は、世界で生きていく上で、対等者を心の中にしっかり受け入れることのできる文明を持っている。例えば鎖国である。鎖国の思想というのは、対等者とは付き合うが、対等でない人とは付き合わないということである。
徳川家康は対清貿易で金儲けがしたかった。ところが、北京からやってくる国書は必ず「汝を日本国王に任ずる」とある。日本には天皇陛下がおいでになるから、家康はそんな国書は受け取らない。秀吉も頼朝も皆同じである。他方、イスパニアやポルトガルのように最初から特定の宗教を前面に押し出した国もあり、文明の脅威であるとの受け止め方がなされてきたが、実はこちらの脅威はさほど強くない。やはり中華の脅威にいかに対するかが、江戸幕府の一番の課題だったのである。
四代家綱、五代綱吉の時代、明朝の遺臣が台湾に逃げ込み、大陸の清に対して抵抗を続けていた。いよいよ台湾を解放しようとして、清が台湾海峡に押し出してきた時、台湾の鄭成功政権は、鎖国をしていた江戸幕府に救援を求めてきた。
もし台湾が清に併合されれば、日本の安全も危機に瀕する。なぜなら、琉球がおかしくなり、それによって九州の外様大名もおかしくなるからである。それは幕藩体制の危機だということで、当時の老中は幕府直参の兵隊を三、四千人ほど台湾に上陸させるという案に決している。
考えてみれば、これは驚くべきことである。そこには日本人の国際秩序や大陸への意識などが集約されている。つまり、日本の安全と台湾や大陸の状況は直結しているということが認識されていたのである。これは「日本乞師」と言われ、その研究が戦前はたくさんあった。ところが、戦後は一つもない。アメリカやイギリスの日本専門の歴史家たちは、「何故研究しないのか」などと色々書いている。
ともあれ、江戸幕府は今の外務省よりも遙かに情報を敏感に収集していたわけである。江戸時代の日本の情報機関は大したもので、中国大陸はもちろん満州やインドシナにも情報の拠点を持っていた。そうした事実をふまえれば、「日本は情報に関しては音痴だ」などとは言えない。安易な日本文化論で日本の可能性を押し殺してしまってはならない。先の聖徳太子の話や江戸時代の現実などを踏まえれば、この国の歴史を貫く大きな文明史的特徴が見えてきて、二十一世紀の日本が何を示すべきかは自ずと分かるはずである。
むろん、そういう文明史的特徴がボーダーレス・エコノミーで変わるわけがないし、グローバリーゼーションの時代は終わりつつある。今は価値観や文明や精神などに世界秩序の基本的ファクターが移っている。日本の再生を考える場合、是非ともそういう観点から腰を据えて、奥深い自信と長期的な楽観をもう一度つかみ直して行かなければいけない。
《質疑応答》
●質問 先生のようなお考えの方は残念ながら学会でも少ないと思うし、保守政党である自民党でもわれわれのような考え方は少数である。そうした中で、これからの国際社会に向けて、単なるナショナリズムを超えた、日本文明の普遍性のようなものを日本は戦略的・戦術的にどう発信していくべきなのか。
○中西 これは先程述べた個性と普遍性という問題であり、一番大事な点である。個性を主張するときは必ず普遍性を同時に提起しないといけない。しかし、日本の識者が欧米のメディアのインタビューを受けると、日本の個性に基づく主張だけをしておられる方が多い。国内的には、それはそれで意味があるが、一歩外へ出ると全く文脈が違ってくる。とりわけ外国人に対しては、やはり日本はこういう普遍性を踏まえた国であるということを必ず示していかなければいけない。例えば日本文化や歴史認識や日本の経済システムについての個性を論ずる際は、あわせてアジアの民主主義や人権、報道の自由や公開性という観点を日本が一番代表しているではないかとか、これほど公開の議論が可能な国はないといったことを主張すべきである。これは日本人が自信を持って主張できることでもある。
一方、欧米人の基本的な国際社会観は、お互いが潜在的な敵であるということであり、だからこそ勢力均衡に基づく国際秩序を作っている。そうした国際社会観を前提に、日本も他国が敵になった時のことを平和時から考えておく必要がある。特に靖国問題などでは、欧米や中国から批判された時にどう言い返すかということが戦術的にも重要だろう。その場合、自由、民主主義、人権、法治国家という価値観は、日本伝来の価値観であると同時に、世界に日本の普遍性を発信できるテーマでもあることをしっかり認識すべきである。
そうしたテーマで日本が対抗するのは常識だと言えるが、なぜか日本人はやらない。特に靖国問題について、私はアメリカの友人などからそのことを繰り返し指摘されてきた。
●質問 国会の党首討論で、民主党の小沢党首が教育基本法改正に関して、「占領政策の歪み」を指摘していたが、小沢氏はA級戦犯を靖国神社の霊璽簿から抹消すべきなどという矛盾したことを言っている。経済界や一部の自民党議員たちも、A級戦犯分祀や靖国神社を参拝すべきでないなどと言っているが、これこそまさしく占領政策の歪みではないか。
○中西 そうした主張をしている自民党の括弧付き「多数派」は戦後日本の究極の姿だと感じている。経済同友会も同じである。単に目の前の状況を見て、中国とこんな問題で論争しても勝てないよと始めから彼らは言う。「東京裁判云々」の話になれば日本は孤立してしまうからそんな話はせず、負けていた方がいいという論理である。
しかし問題は、負けてその先に一体何があるのか、それと引き換えに何を取るのかということである。日本は金持ちになったが、もっと金持ちになりたいということなのかも知れないが、それはいわば「町人国家」をいつまでも続けたいということであり、食っても食ってもなお食い続ける「豚の論理」である。それは国としての滅亡だということを今から二十年程前、天谷直弘という通産官僚OBが述べている。
私は若い世代と付き合っているが、その世代まで見越したとき、今の「多数派」の政治家や官僚や経済界のリーダーたちは、明日の少数派だということがはっきり見えてくる。彼らはみんな同じパターンで、一つのパラダイムに生きている。しかし、歴史は変化してやまないというのが本質であるから、今の彼らを貫いている世の中はこんなものだという開き直りは絶対に続かない。それは、非常に明確に私に見えてくる気がする。
事実、小沢さんのような人でさえ「占領の歪み」という言葉を使うということは、このボキャブラリーがいよいよ日本人の多数派の中に浸透し始めたということである。そこに非常に微妙な時代の潮目の変化が見い出せる。
なお最後に付言しておけば、これは私が最近発見したことだが、今の憲法一条の作成には、トマス・ビッソンというGHQの民政局官僚が関わっていた。ビッソンはコミンテルンのスパイであった。つまり憲法一条はソ連のスパイが作成した。特に後段の「天皇のこの地位は主権の存する日本国民の総意に基く」という条項を入れさせたのはコミンテルンである。これが歴史的事実である。
(文責・正しい日本を創る会事務局)