◆政治と経営・軍事は対照的な性格をもつ
今日は色々な議論の種になるという程度のことを話したい。最近、改革といえば民営化をさす風潮があるが、民営化すれば全てが上手くいくという訳ではない。民営化とは自立的な経営を行なうことである。一方、国営や公社というのは国会という政治の場で意思決定がなされる。経営というものと政治の間には、極めて対照的な性格が見られる。そのことの認識は、国の様々な事業の運営形態を考える上での基本である。
マッカーサーは軍隊に民主主義はないと言ったが、経営の意思決定の場においても民主主義はない。CEOは、自分の判断と決断で行動し、結果への責任を取るのが基本である。従って、経営と軍隊は似ている。アメリカのビジネススクールで教えていることは、アメリカの陸軍士官学校などで教えていることの応用ともいえると思う。
では、政治と経営(軍隊)はどこが違うのかと言うと、政治はギリシャ・ローマ時代からの対話という伝統的な手法に拠ってきた。最近はテレビその他のメディアもあるが、やはり基本は対話である。ところが、経営はコンピュータを始めとした、あらゆる近代的ツールを使う。軍隊も同じである。
次に、政治の目標とする価値は常に流動的であり、ファジーで多様である。ところが、経営の目標とする価値は、利益やシェアの拡大であり、軍隊の目標は敵の殲滅、敵地の占領など、非常に単純明快である。
さらに、政治の場合は、特に平時においてはコンセンサスが必要で妥協的性格を有する。ところが、経営はコンセンサスではなく、経営者の先見性、戦略性、即応性が大切で、中途半端な妥協ではなく、徹底的でなければならない。
まとめると、政治は対話によってファジーな目標を達成し、妥協によるコンセンサスにより目標に到達することを旨とする。一方、経営や軍隊は、極めて精錬された近代的な理論を駆使して単純明快な目標を追う。そして先見性、戦略性、即応性を以て、その目標を徹底的に追求するという形をとる。
結局、国鉄が民営化へ追い込まれたのは、政治の場で運賃、賃金、事業計画を国の予算や運賃法の中で決めながら、経営目標を達成しなければならないという矛盾、つまり方法と目標にズレがあったからである。私は二十四年間鉄道にいて、鉄道の中で何をやるべきかは分かっていたが、常に不十分、不徹底、時期遅れにしか実現できなかった。政治という場で意思決定を行うことの、ある意味で必然的な弱みだった。いわば「木に登って魚を捕る」という姿になったのが、国鉄経営破綻のプロセスであった。そして国鉄の民営化とは、累積債務や余剰人員という負の遺産を清算し、将来に向っては経営の意思決定により自律的に行動し、結果で責任を取るという一貫したシステムに転換することだった。
従って民営化をする場合、政治と経営のどちらの方法に適した課題なのかを見極めなければならない。全てを民営化すれば上手く行くということではない。国がやらなければいけないものは国がやり、民がやらなければいけないものは民がやり、どちらがやってもいいグレーゾーンについては時代によって変遷するという風に考えるべきではないか。
◆教育改革の二つのアプローチ
こうした問題意識に端を発して、私が最近手を付けたのが教育問題である。日本で教育改革が叫ばれて久しいが、教育問題には二つのアプローチがある。一つは国のシステムをどう変えるかという政治的なアプローチである。しかし、教育問題は百人百通りの教育論があるため、これをまとめて一つの提案をしようとすると、焦点の定まらないものになってしまう傾向がある。もちろん、それでも教育基本法を変え、日教組の性根を叩き直し、まともな教育をさせていくというアプローチは強力に進めなければいけない。
しかし、これだけでは相手は時間稼ぎが出来ることになるので、もう一方から穴を開ける、つまりミクロの世界からも攻撃を掛けて、挟み撃ちにすべきだというのが私たちの考え方だ。要するに、自分たちの資源を動員して、自分たちが出来ることをやる。即ち自分の理念を体現した学校を作るというアプローチである。それが私たちが始めた海陽学園という全寮制の中高一貫男子校である。トヨタ自動車と中部電力とJR東海と、他にも多数の日本の企業に賛同していただき、今年の四月にスタートした。
今は一学年のみ百二十人の学校だが、いずれ六学年そろえば七二〇人になる。ここで撒いた種が小さな芽を出して、それがご両親を始め世間の人々に評価されれば、その評価されたものが公的教育の中にも取り入れられていく可能性がある。その意味で、自分たちがやれることをやって、その波及効果を見て、国として全体を俯瞰した見直しを進めていくようなアプローチが必要だという認識から開始した。
人間の成長過程を昆虫にたとえると段階的に、幼虫・蛹・成虫という三段階に分けられると思う。幼稚園に入る学齢から大学を卒業するまでは、人間の幼虫期に当たり、大学を卒業してから社会人として一人前になるまでが蛹の時期。そして一人前の社会人となって成虫になる。
一方、教育を通して与える内容は、「学ぶこと」「思うこと」「行うこと」の三つに分けられる。「学ぶこと」は知識を習得することで、「思うこと」は自分の頭で考えること。「行うこと」は責任を持って決断し行動することである。論語にもあるように、知識を詰め込んでも、自分の頭で積極的にものを考えない人は役に立たないし、逆に知識もないのに自分勝手な考えを巡らして行動する人間は危うい。だから、学びかつ思うということが大切であり、さらに行うということが重要である。つまり、知識を習得した上で自分で考え、その上で現実に対して自分の頭で判断し行動するということが大切になる。
教育を考える際は、以上の「幼虫・蛹・成虫」×「学ぶ・思う・行う」という三×三=九のマトリクスに対して、それぞれ何をなすべきかを考えるべきである。しかし、現実はこれらが全部ごっちゃになっているのではないか。例えば子供に主体的に自分のやりたいことを選ばせればいいという無責任なことを言う人がいるが、幼虫期に「学ぶこと」は基礎である。基礎を学ぶことは面白くないが、無理にでも効率的に叩き込んでやらなければいけない。それが人類二千年の歴史の知恵である。
また、幼虫期は、学ぶ・思う・行うことはバラバラで、決して統合されていない。しかし一人前の社会人になると、自分の天職が決まってくる。私の場合は鉄道事業だが、学生時代に学んだ基礎の知識を土台に、日々の仕事を通じて学ぶ知識をつみ重ねる。その上で鉄道の将来が如何にあるべきかということを考える。こうして、学ぶ・思う・行うの三つの要素が鉄道の経営という一つの実体のそれぞれの側面としてインテグレートされるが、幼虫の時代はむしろバラバラでなければいけない。空想は幅広いほど良い。もし私が子供と同じ空想を今も描いていれば何の役にも立たないが、他方、子供の時から大人のように、役所の局長にでもなって辞めようか、などと思っている子供も多分何の役にも立たない。
◆改革の焦点は基礎の教育
今、われわれが日本の教育のどこを直せば一番良いかと考えると、やはり基礎の教育だと思う。例えば大学について日本にも良い学校がたくさんあるし世界にもある。学生は自分の志に従って自分で選ぶことができる。しかし、これから育つ過程にある子供たちに関しては、そこでの教育が混迷していると、子供達は将来の選択肢を持てなくなる。従って、私達民間がやるとすれば、小中高等学校について自分達の志を体現したものを作っていこうというのが考え方である。
とはいえ、中学生以上でなければ寮では預かれない。なぜ全寮制かと言うと、今の世の中には一人っ子が圧倒的に多い。しかも、今の学校教育では必要な読み書きそろばんの能力が(十分に)身に付かないから、彼らは塾に行く。学校で拘束され、塾で拘束され、家に帰っても両親は働いており、お祖父さんやお祖母さんもいないから、パソコンとテレビゲームで遊ぶことになる。しかし、それでは社会性が養われない。そう考えると、同じ様な年の子供たちが一緒に生活する家庭に代わるべきものを教育の場で作ってやらなければいけない。そのためには全寮制が一つの答えになる。すでに英米では、証明済みの仕組みである。しかし、全寮制は、日本では小学生には無理である。中高一貫校を作るしかないということである。
そこで何をやるかと言うと、一つは基礎知識を徹底的に効率的に教える。これは、実は自由時間をなるべく多く与えたいということと裏腹の関係に立っている。つまり、効率的に教えることにより、生み出される時間を活用し、好きな本を読んだり、好きな分野の勉強をしたり、あるいは友達と遊ぶことができるようにしてやりたい。
そうした動機で作った中高一貫校が海陽学園である。海陽はその町の名前で、学校のマークは橘。「左近の桜、右近の橘」と言って、紫宸殿の両脇に植えられている。桜は広く学校の校章に使われているが、橘は文化勲章ぐらいにしか使われていない。学校がみかんの産地である三河にあるのでこの校章にした。
三十人一クラスで、一つの寮に六十人の学生が寄宿している。四階建ての寮で一階にハウスマスターという、先生でありかつ親代わりの人が家族持ちで住んでいる。一階の半分はハウスマスターの住居区域で、残りの半分は生徒たちが集まるラウンジになっている。二階・三階・四階に二十人ずつの学生がそれぞれ個室に入って寄宿している。
本校の特色は、その二十人に一人ずつ、各企業の入社三年から五年ぐらいの独身の男子社員がフロアマスターとして、一年間だけ一緒に寝泊まりすることだ。二十人の子供が脱落しないよう、また礼儀正しく規律正しい生活ができるように指導するお兄さん役である。現在、トヨタ自動車、中部電力、JR東海、日立製作所、東京海上日動、富士フィルムから各一人ずつ来ている。
フロアマスターは子供たちをしつけ、集団生活が上手くやっていけるように指導しなければならないが、子供は大人よりも扱いが難しい。だから、管理者教育としてもこれは大変有効なシステムである。更に同世代の異業種の青年がチームを組んで一年協力することにより、本人達にとって、貴重な大人のネットワークが形成できるメリットもある。一学期の間に全員が自分の部屋をきちんと片づけ、ベッドやシーツをたたみ、シャツは自分でアイロンを掛けるという習慣が身に付いた。そういう仕組みの中で、基礎を叩き込み、また自由時間には自発的に色々なことをする余地を与えている。
◆リーダー教育の三つの「要諦」
それ以外にも、海陽学園では日本の教育が今まで戦後一貫して目を背け、あるいは退けようとしてきたリーダー教育も行う。日本には「リーダー」と聞いただけで批判的になる新聞があるが、アメリカでもイギリスでも世界のどの国でも、国のリーダー、組織のリーダーを育てるための教育を行っている。これまで日本だけがそういう観点を欠いてきた。
リーダーの条件はいくらでも挙げられるが、一番大事なのは独立自尊の心である。これは慶應義塾の創始者の福澤諭吉の言葉だが、リーダーにとって、媚びないということが非常に大事である。最近は政治家も経営者も官僚も、常にマスコミがどう受け取るかとか、世間がどう理解してくれるかということを基準に自分の行動を決めるというケースが多い。しかし、自分の目で物を見て、自分の頭で判断して、そして自分が正しいと思うことを行う。自分が正しいと思っている限り、他人に何を言われてもたじろがないという姿勢がリーダーシップの要諦ではないか。
二番目の条件は自己犠牲と奉仕である。リーダーは自分のためだけに働いたり、苦労するというだけではいけない。やはり周辺の人や家族から始まり、地域社会、最終的には国のために自分が我慢すべきは我慢する。自己犠牲を厭わない奉仕の精神が二番目のリーダーの要諦だと思う。私が仲良くしている名古屋のあるカソリックの大学の学長に、「あなたの学校はキリスト教精神を中心にすえているが、私たちが新しい学校を作るときに基本精神をどう据えたら良いと思うか」と聞いた。すると彼は、「奉仕という言葉さえ入っていればいい。奉仕には国のために命を捨てることも入るし、隣人の為に自分が我慢することも入る。そういう精神でやればいい」という趣旨のアドバイスをしてくれた。私も全くその点は同感で、自己犠牲と奉仕を二番目の要件として入れた。
三番目のリーダーの条件はアイデンティティーである。これからはグローバル化の時代であり、インターナショナルになっていくべきだということがよく言われるが、インターナショナルになるということを、自己を喪失することだと短絡的に考える人が多い。しかし、私はアメリカ人やイギリス人との付き合いが多いが、彼らは自分の国の文化についての知識や教養がない人、歴史観を持たない人間に対して尊敬心を払うことはない。従って、自分の国の歴史、文化、伝統を十分知り、それに誇りを持っている人間だけが国際人として立派にやっていける。以上の三つがリーダー教育の基本であると考え、われわれの学校でもこれらを教えることを心掛けている。
特定のマスコミは、エリートの受験校を作り、差別化が進んでいる状況を更に激化させるのではないかと評しているが、そんなことはない。色々なメニューがあって、それぞれの人に適した選択ができることが大事なのだ。だから奨学金も用意して、優秀だが家計の負担が少し苦しいという場合、補助するようにもなっている。
◆時代は戦略的発想への転換を求めている
話は変わるが、今や田中角栄首相以来の「土建立国」は終焉しつつある。最近、公共事業は減っている。つまり、財布の中身が少なくなっている。そうした場合の企業経営における合理的選択は、限られた資源を戦略的・集中的に投下していくこと、つまり将来に付加価値を付けるような戦略的プロジェクトに特化していくことである。
ところが、政治の世界では必ずしもそうならない。財布の中身が少なくなってくると、戦略性ではなくて平等性に政治判断が引きづられてしまう感じがある。鉄道の問題で言うと、整備新幹線が目下進んでいるが、共産党も含めた全党派が作れと言っていると国土交通省は言う。それで今、八戸から青森、青森から函館、函館から札幌まで作ろうとか、あるいは北陸新幹線は、富山から更に延ばして金沢、更に延ばして大阪まで結ぼうとか、あるいは九州新幹線は八代から福岡は当然やるだろうが、長崎にも作ろうというふうに、ともかく無い所に作らなければいけないという議論が非常に強くなっている。
国が意思決定する場合、先程の政治と経営(コンセンサス・戦略)の対照的な性格から言ってやむを得ないかも知れないが、それだけで終わってしまうと、日本の二十一世紀には夢がないことになってしまう。何らかの打開策を講じなければいけないと思っている。
◆JR東海の「近未来の目標」
最近、コーポレート・ガバナンスという言葉がよく使われる。この言葉の背景には、会社は株主のためにあるという発想がある。株主は何を求めているかというと、配当や株価が素早く上がることを求めている。それで、非常に短期的に株価総額を上げ、配当を上げ、株主を喜ばせることが経営だと思っている人が最近増えている。
しかし、鉄道がなぜ長い間、国営で来たかと言うと、タイムスパンが長いからである。鉄道は日々安全に運行しなければいけないが、そのためには、士気が高く、規律が厳正で、練度の良い職員を作り上げていくことが必要である。それに加えて先端的な技術と丈夫な設備を作って、設備と技術と人間で安全を守ってきたのである。
時間を「今」「近い将来」「将来」という三つの時制に分けると、「今」というのは毎日で(毎日の課題は、安全、安定、正確、快適な輸送である)、その毎日を永遠に続けなければいけない。東海道新幹線は開業後四十三年間、一人の死傷者無しに今日まで来ているが、これを永遠に続けるいわばノルマをわれわれは背負っている。
また「近い将来」とは鉄道の場合は一口に言って二十年後と考えればよい。JR東海が発足して今年でちょうど二十年目になるが、この二十年間にわれわれは、五兆五千億円あった借金を三兆五千億まで減らし、新幹線の速度を二百二十キロから二百七十キロにアップし、さらに品川に駅を作り、首都圏に三つ目の新幹線へのアクセスポイントを作った。いわばJR東海の発足当初に立てた戦略が、二十年近くかかって達成した形になる。
将来は50年先である。JR東海発足当初に立てた将来の課題は、東京〜大阪を1時間で結ぶことだった。20年、超電導リニアの開発をやってきた結果、今の時点での次の近未来の目標として、東京・大阪間を一時間、東京・名古屋間を四十分という飛躍を捉えることができるようになった。すでに超電導磁気浮上鉄道は技術的にいつでも実用化できるところまで進んでいる。が、これを今の整備新幹線の公共事業の図式でやろうとすれば、北海道や長崎まで新幹線が出来た後だということになりかねない。しかし、技術というのは出来上がった時に使わなければ劣化してしまう。今いつでも作れる状況にある以上、我々はどうしてもやらなければいけない。とすれば、従来の公共事業とは違ったものを考えなければいけない。つまり、民がイニシアティブをとって、それに国が相乗りするという逆転させた新しい形の公共事業を作っていかなければいけない。
山梨に超電導リニアの実験センターがあり、現在一八・四キロの実験線を使って、約五十万キロの試験走行を既にやっており、最高速度五八一キロまで出している。今までは、国のお金で実験線を延ばしてほしいと言ってきたが、今年われわれの資金で延ばすことに決めた。おおよそ三千五百億円ほどの投資になるが、四二キロに延ばすと、今まで五両で走らせていた実験列車を十両編成でほとんど実用に近い形で走らせることが出来る。いわゆる実用仕様の実験線になるというのが第一段階である。
第二段階は、「東海道新幹線二十一世紀対策本部」を作り、ここに人材を投入して東海道新幹線のバイパス建設を推進する。東海道新幹線は東京から大阪に真っ直ぐ行っているかと言うと、実はS字型のカーブになっており五一五キロある。それに対して、バイパスの中央新幹線は、東京、山梨、名古屋、三重、奈良、大阪という経過点になるかと思うが、そのいずれをも通る短い方のルートでは四五〇キロ程度、建設費はその分安くなる。われわれは、東海道新幹線の旅客が支払って下さる運賃を、東海道新幹線の将来の便益を高めるために未来への投資として、これに取り組みたい。そして、それを国家プロジェクトにしていくという、公共事業におけるイニシアティブを逆転するやり方をしようかと考えている。
◆近未来プロジェクトの素晴らしい「効果」
最後に、リニアプロジェクトの効果を述べてみたい。今夏、東海道新幹線は一日に約三四〇本運行し、今やほとんど通勤電車並に新幹線が動いている。これ以上列車を増やそうとしても、サービスを落とさずに列車を増やすのは、現状では一時間あたり一本から二本という限界にまで来ている。しかし、バイパスを作ることで輸送能力を抜本的に増強できる。
また、新しい技術を適用することによって、東京・大阪が一時間になり、東京・名古屋が四十分になる。途中にも駅が出来れば、それらの駅からは今の時間に比べて圧倒的に短い時間で東京や名古屋や大阪に行ける。一方、従来の東海道新幹線はどうなるかというと、東京・名古屋・大阪を結ぶ「のぞみ」は、大方バイパスの方に移るから、新幹線は「ひかり」を主役に使えるようになる。今、浜松は一時間に一本しか「ひかり停車」がないが、新しい体制が整えば一時間に「ひかり」が三本止まる可能性も生まれる。「ひかり」を様々な停車パターンに変化させることで、浜松、豊橋、静岡、三島、小田原といった地域から東京や名古屋や大阪への時間距離を大幅に短縮できる。この地域全体に大きなプラスをもたらすはずである。
技術面では、二十一世紀、二十二世紀にわたって発展できる技術へと飛躍することになる。新政権が間もなく出来ようとしているが、苦い薬を飲む話ばかりでは国民は付いてこない。その意味でも、これは二十一世紀への一つの国民の夢になる。これは日本だけしかまだ持っていない技術であり、日本の製造業の競争力を強めることにもつながる。
一方、国土計画戦略の観点からは、ライフラインが二重にできるから、地震などの自然災害に対しても、非常に抗坦力の強い国土形成が可能になる。また、中間の神奈川北部、山梨、伊那盆地、三重県北部、奈良などの開発可能性が非常に高まる。その意味で、日本の将来の経済的なポテンシャルを高めることにもなる。
さらに、超電導による鉄道は航空機に比べて炭酸ガスの排出量が半分で済むので、非常に環境親和性の高い輸送が提供できる。恐らく二十一世紀、二十二世紀には世界中に超電導高速鉄道が輸送密度の高い所に実用化されると思うので、日本が世界に貢献することもできる。その意味でも理想的なプロジェクトだと考える。
《質疑応答》
●質問 リニアの構想について、実験線を十八キロから四十二キロまで延ばすのに三千五百億円かかるということだが、全線を完成するには費用はどのくらいかかるのか。
○葛西 状況が変わるとどうなるか分からないが、今の物価水準や金利水準を踏まえれば、大体、六兆円〜七兆円で複線が出来ると思われる。第二東名が東京・大阪の中心部に対するアクセスなしで十兆円と言われている。それに比べれば、鉄道はあまり用地を取らないので、大分コスト的には安いと思う。
●質問 海陽学園の入学者の選考の仕方はどうやっているのか。また、どういう家庭の子供が入学しているのか。
○葛西 全寮制という性格上、両親並びに本人の面接をかなり丹念に行い、それとペーパーテストという形で選んでいる。ペーパーテストの成績だけで選ぶと、寮生活が維持出来なくなるかも知れないからだ。まだ始まったばかりなので試行錯誤を繰り返してより精度を高めなければいけないが、先生方は、小学校六年生の子供はテストでも面接でも、将来どのぐらいのポテンシャルを秘めているかはなかなか読みにくいが、ご両親の方は相当程度分かると言っている。また、本校には色々な方が入学している。
●質問 私の隣の選挙区にも全寮制の農業高校があるが、私の選挙区からも進学者が多い。今の時代に全寮制というのは大事なことなのかも知れない。
○葛西 昔の家庭にはお祖父さんやお祖母さん、両親、兄弟もいて、家の中が小さな社会になっていた。ところが今はもうそうではない。子供は一人が多く、両親が働きに出ているということになると、どこかに人間同士の接触の場を作ってあげないといけない。こうした今のご時世においては、全寮制はすごく意味があると思う。
●質問 フロア・マスターというのはどんなことを行っているのか。
○葛西 十時が消灯時間で子供たちは寝るが、まず夜中の十二時にちゃんと寝ているかどうかを見に行き、朝五時半にもう一回見て回り、六時半に全員を起床させて、ベッドをたたませ、ラウンジに整列させて点呼を取る。それから食堂に連れていって、二十人が同じテーブルについて一斉に食事をとる。さらに毎日、日記を書かせ、その日記に返事を書いて、子供たちがどう思っているのかを掌握する。かなりきめの細かいケアをしている。
●質問 憲法改正問題についてはどのようなお考えか。
○葛西 憲法改正は、本当は全部作り直した方がいいと思うが、最近は朝日新聞なども、これ以上の解釈(改憲)はやめて、正々堂々と憲法改正を議論しようと言っている。しかしこれは、負けると見せて退却して、誘い込んで包囲せん滅する伝統的な戦法だと思う。というのも、憲法改正を定めた九十六条は、ほとんど改正できないように作ってあるからだ。
それ故、私はまず解釈によって一番問題となっている棘を取る方がいいと思っている。つまり集団的自衛権の問題である。日本の二十一世紀を考えた時、アメリカと日本が役割分担して、中国の核兵器の脅威に対峙する図式が絶対必要だが、その時に集団的自衛権による分担関係が無ければ、日米同盟は機能しない。集団的自衛権はあるが、行使できないという従来の解釈は捨てるべきである。これを変えるのが一番大事なことで、それは解釈で変えればよい。つまり、総理大臣が集団的自衛権があると言えばいい。
もしそれだけでは足りないというなら、国会決議にかけて、集団的自衛権を行使できるようにすべきである。日本国憲法の理念の最たるものは国民主権である。国民とは今生きている国民に他ならず、明治憲法の改憲規定が今日の主権者を縛るというのでは、国民主権ではなく亡霊主権になる。国権の最高機関である国会が議決さえすれば、集団的自衛権は行使出来るはずである。解釈で棘を抜いてから、ゆっくり憲法を改正すればいい。集団的自衛権の従来の解釈さえ捨ててしまえば、憲法改正を妨害しようとする人々の意欲もなくなってしまうのではないか。(文責・正しい日本を創る会事務局)