◆「憲法と教育基本法」改正の眼目
今日は、常日頃考えているnationality restoration(国柄復古)について幾つか話をしてみたい。私の言うnationalityは、国籍ではなく国民性や国柄であり、それをリストアー、回復するとことがいまの日本にとって大事ではないかと考えている。
日本人は「明治維新」と言うように、よく「維新」という言葉を使うが、面白いことに明治維新を英語に訳すと「Meiji restoration」となる。そして、これをまた日本語に訳すと「明治復古」となる。言うまでもなく明治維新は、それによって天皇制が再度強く確認されたわけだが、要するに「王政復古」という意味でrestorationと言うのである。
もちろん維新という言葉自体、日々新たなり、旧きを温ねて新しきを知ると解釈すれば別に悪くはないが、非常に直接的に言えば、復古が維新というふうに言われて百何十年、さしたる違和を感じていないあたりから、近代日本人の言語感覚が徐々に狂い始めている。そういう思いを込めて、私はあえてrestoration(復古)を使っている。
さて、いま安倍晋三内閣は、一応、憲法改正、教育基本法の改正を掲げているが、それには国民性nationalityの確認が必要である。小泉さんと比べて多少見込みのあるスタンスを取っていると漠然とは思ってはいたが、どうもこの数ヶ月を見ると、さして期待を持てないのではないかと。その最大の理由は、憲法九条の改正問題。
憲法九条を改正するというのは政治的には大変な問題だということはよく分かっている。しかし、ものの考え方から言えば、実は大した問題ではありはしない、当たり前のこと。憲法九条の第一項では侵略戦争はしないと言ってるだけのことで、問題は言うまでもなく第二項。前項の目的を達するために、つまり侵略戦争しないためにというのは、どう考えたって削除するしかない。また、憲法違反と言わざるを得ない自衛隊が、既に五十年にわたって存在しているという現実を直視すれば、憲法九条の第二項を取るのか、もしくは自衛隊を取るのか、そういう選択をもう長年迫られている。おそらく日本人のコモンセンスから言えば、きちんと議論すれば自衛隊の方を取る。それは即、九条第二項は実質上、死文となる。それをどういうふうに政治の場で表現するかは皆さん国会議員のご努力であるけれども、基本的理解から言えば、それ以上の議論は必要ない。
それ以上に今の憲法の大問題は、第一条の天皇条項を別とすれば、憲法前文、基本的人権、自由、個人の尊厳規定、その他諸々、ほとんど全てにアメリカ的な物の考え方――ここではとりあえず「アメリカ二ズム」と言わせてもらう――でピュアな形で書かれている。
条文を具体的にどうするかという議論は当然あっても、果たして日本の国民性nationalityを踏まえたときそれでいいのか。アメリカの独立宣言、フィリピン憲法の真似でもいいけれども、あの人工的な、人為的な、観念的なものをそのまま残しておくかどうか。国会での議論はともかく、それが日本国民として本当の大問題である。
日本の戦後で政治のみならず文化が完全に狂った政治的な最大の理由は、日本の国柄、国民性を基本にしていないことにある。戦後もう六十一年、アメリカニズムにすっかり毒されてしまっている。アメリカニズムは、いわば純粋の近代主義の中に進歩を見出すということであるが、実は元々はフランス革命の時の左翼・レフトの流れである。
日本人は左翼と言うと、社会主義とか社会主義に同調的な、あるいはその流れを汲むものとして、例えば朝日新聞や毎日新聞のことを指していれば事足れりと思っているようだが、そうではない。フランス革命で言えば、個人の自由とか科学の合理性とか、近代の理念を純粋に信じ込んで、旧体制を出来るだけ早く大規模に破壊せよと訴えた者が議場の左側に座っていたから左翼と呼んでいる。
現在世界には百九十幾つかの国があるらしいが、事あるごとに個人の自由、科学技術の合理性、効率と叫んでいる国を挙げろと言えば、それはアメリカということになる。そういう意味でアメリカは左翼国家であったということを、遅ればせながら確認してもらいたい。
そうすると冷戦cold warは、左翼が二つに分かれて、一方は東へ進んでソ連、中国となり左翼的な理念を社会主義的に実現しようと考えた。他方は西に流れて太平洋を越えて大陸に来たときに、近代主義の理念、左翼的な理念を個人主義を原理として作ろうとしたアメリカだった。だとしたら冷戦構造の基本的認識は、中核、革マルではないけれども左翼の内ゲバとなる。
その原点さえ押さえておけば、アメリカに近寄るのは保守で、中国などに接近するのは革新というような五五年体制の根本認識が、政治理解としても国家理解としても狂っていた。それが色んな歪みとか捻れとなって、現在に至っていると考えた方がいい。
ちょっとだけ余談。小泉政権その他に真っ向から僕が反対したのは、彼の思想の中にアメリカニズムという形での左翼思想があったからである。だから、憲法論議の中で、そういうことを少しでもあぶり出してもらいたい。
◆守るべきは理想と現実のバランス
北朝鮮の核実験などを巡って小泉さんについて最も残念だと思ったのは、いともたやすく日米は基本的価値を共有していると言ったことである。両国は自由民主主義、それで日米同盟が大事という解釈であるけれども、物凄く薄っぺらである。こんな人間が憲法改正だ、教育基本法改正だと言うのはおこがましい限りである。
自由民主主義の、自由、平等、博愛は、僕も理想として認める。でも自由だけを過剰に追い求められたら間違いなく今のアメリカのようになる。平等だけを追い求められたら、画一、平準化になる。昔ラテンの諺で、「徳の過剰は不徳に転ず」というのがあった。自由、平等、博愛だけを過剰に追い求めたら必ず放縦、放埒になる。
保守派としては、自由に対しては秩序という現実がなければいけない。平等に対しては、一般的格差と言っているが、人間は必ず格差の中に生まれている。博愛に対しては、英語で言うとエミュレーション、競い合いという現実がある。ところがこの現実主義も、理想主義が発案されたと同時に、秩序だけを追い求めたら必ず抑圧的なことになる。格差だけを追い求めていれば必ず差別的な事になる。競い合いだけをやっていけば要するに弱肉強食の、極悪無情な社会になって行く。アメリカはその典型的である。そんな中に日本が巻き込まれてはならない。
守るべきものは理想と現実のバランス。自由と秩序のバランスは活力vitality、労働と格差のバランスは公正fairness、それから拡大と競合のバランスは節度moderation。バランスの具体的様相は状況situation、TPO(日本の陽明学のいう「時処位」)に依存するので科学的分析によっては示されない。やはり歴史の叡智、伝統の精神が今の状況の中で価値の公正さを辛うじてサジェストしてくれる。それゆえに保守派は、歴史の秩序を大事にしなければいけない。
◆IT革命論の近代主義(左翼)的傾向
IT革命とは、ほとんど真っ赤な嘘。人間だけは、ある長期的なビジョンを備えながら今現在短期的にどうするかを考えることができる。時間という意識を持って未来に取り組むことができるからである。
竹中平蔵氏たちエコノミストの最大の罪は未来は不確実ということ。不確実性には二つあって、一つは確率的計算の可能なリスクrisk、これは日本語で訳すと「危険」。よくリスクをとれと言うが、将来が確率分布で計算できると思った時だけriskを取れる。
確率で計算出来ないものを英語でdangerまたはcrisisと言う。日本語で言うと「危機」となる。長期の未来においては、欲望も制度も価値観も技術も変わる。条件が変わるものは確率的に予想ができない。danger、crisisに取り囲まれているのは未来であり、これについてITはほとんど無効である。それに取って代わるのがHO(human organization)、つまり人間組織である。
ところが、これもまたアメリカ的な薄っぺらな科学で、将来は確率的に計算できる。だからITをフルに使えば斬新な効率的なことが出来る。という嘘話をエコノミスト達が中心になって、日経新聞で十二チャンネルで延々と十何年振りまいてきた。他の新聞、経済学者もまたしかり。
計算出来るとしたら情報とか金融、短期間に何十回も何百回も取引が出来るような場合はあまり技術も欲望も制度も変わらない。というので確率的にできる。それをアメリカは狙った。逆に言うとアメリカは、物作りで日本に遅れをとって、まだ取り戻していない。そうならば、アメリカ人が言うところのsymbol economy金融・情報で、日本のsubstance economy実体経済を押さえ込む。そのアメリカの国家戦略にまんまと喜び勇んで飛び込みIT革命の名のもと次々と物作りは破壊されてきた。
簡単に言えば、物作りにとってはHO(human organization)、日本的経営がいい。日本の歴史の産物たる日本的集団運営方法の知恵を、この二十一世紀の新しい状況の中でいかに修正強化再訓練するかということをテーマとして掲げるべきなのに、逆に日本的経営はもう古い、邪魔ということで、平成の十何年間壊しに壊してきた。
そういう意味で、経済だけではなく政治も含めて長期未来に取り組む時には、特に物作りのようなものにかかわる時には人間組織を守らなければいけない。この歴史的産物こそが我々の生命線であり、それを出来るだけリストアー、復活させていただきたい。
◆国家とは何か
日本人は今なお反国家的な雰囲気がある。国家とはなんぞや。英語で国民はnation。家は政府の府と同じで英語ではstate。国家nation stateとなる。国の家、家とは政府、結構意味が広い。それをあろうことか、日本の馬鹿政治学者達は今なお国民国家と呼ぶ。一般認識では、政府が国民と切り離される。当然民主主義の立場から政府が強権を発動することに対する反発がある。そういうものと絡め合った反国家主義的な動きが日本にはずっとある。
国家は、国民及びその政府である。従って国家がもう古いとかボーダレスとか国境を越えているとか、これ自体は根本的に認識の間違い。これは政治家というよりも戦後日本人の間違いである。
どんな国でも外面的には必ず国際関係を伴っている。内面で言えば、北海道があり関東があり関西があり沖縄がある。必ず地域的な連関として国家が出来ている。国家は外側で見れば国際的、内側を見れば域際的interregional な環境の中にある。この両者のせめぎ合いの中でバランスを取るために、法律の体系に道徳を入れた徳律の体系を歴史的に作ってきた。それが国家である。
国家の本質を考えれば、戦後の反国家主義とか今流行の地方主義とか地方分権がいかに馬鹿げたことであるかがわかる。もちろん地方分権には中央政府が何らかの働きをしないといけない。なのに分権化、集権化などという子供じみた論議に巻き込まれている。僕ならば分権と集権のバランスこそ国家の歴史的な在り方だと主張する。もちろんいつも素晴らしいとは限らない。もし歪んでいたら、バランスの歪みを議論すべきである。それを集権を廃して分権へなどと言うからおかしくなる。
◆自主防衛の必要
ところで、僕は軍事論者でも軍事主義者でもないが、核武装は論じた方がいいと思う。急ぎに急いで核武装をやれというのではなく、物の考え方として言っている。
日本人だけが日本という国があると思っているらしい。しかし、アメリカ人のほとんどは、少なくとも責任ある立場にいる人の本音を言えば、日本なんか独立国だなんてほとんど思っていない。外交的リップサービスで言うことはあるけれども、平然とプロテクトメント(保護領)とか、テリトリー(アメリカの領土、州に至る前の準州)とか、ポーン(チェスのふろ駒)であるという言葉が飛び出てくる。
アメリカとの戦争を言っているのではない。当たり前のこととして、日本は自分で自主防衛しなければいけない。誰だってそういうふうに思う。だからアメリカ人の方がずっと常識がある。自主防衛もやる気がない日本が、独立国であるわけがない。
そんなことを言うと親米主義の防衛論者達は、自主防衛できるのはアメリカだけと戯言を言う。でも違う。自主防衛と単独防衛は全然違う。確かに単独で自分を防衛できるのは、いま核弾頭一万何千発を持っているアメリカだけということは言える。そうではなくて自主防衛というのは、同心円のど真ん中に自分がいて、最悪の場合は単独で戦ってみせるという構えをし、集団防衛の体制を布く。それだけでも安全とは言えないので、不可侵条約や様々な協定を結ぶ。
日本では肝心要の単独防衛の核が無いので、集団防衛についてのほとんどはアメリカにお任せ。全く中心が空洞化した防衛体制の中に日本はいる。それなのに日米同盟があるから大丈夫という戯言を日本の親米派は言っている。長期的に言えば、やはり中心になるものを作らないといけない。となると論理的には核武装について考えざるを得ない。もちろん核武装をいつどうするかは色んな段階、種類がある。国際情勢の問題もあるので、その事に一意専心せよと言う気はない。しかし基本的には、やはり核武装する以外にこうした同心円上の防衛体制をしっかり組むことはできないだろう。
非核三原則など、まるっきりのウソ話に決まっている。「持ち込ませず」については大概の日本人は佐世保でも横須賀でも都合のいいときに核を持ち込んでいるだろうと思っている。逆に言えば、核の持ち込みもしないようなアメリカ軍を信頼して、アメリカに守って貰おうなどと思っていたとしたら、よほどのマヌケということになる。だから、きちんと議論すれば、「そうでしょうな、もう何十年も前から持ち込んでいるでしょうな」ということで、話はおしまい。本当の議論は、三原則ではなく二原則になる。
二原則とは、「持たない」「作らない」。アメリカが核の傘を日本列島にかぶせてくれれば日本人が核を持たなくても作らなくてもいいという理屈は成り立つ。ところが防衛論の常識として、ICBM(大陸間弾道ミサイル)と巡航ミサイルができた段階で、すでに核の傘は機能しない。どうしてかといえば、アメリカにしたって、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスといった自国の主要都市が壊滅的な被害を被る覚悟で、他国を守ることはない。従っていまや、好むと好まざるとにかかわらず、核の技術水準からして核の傘は実質上崩壊してしまった。
それから、アメリカの防衛論の学会では、実は圧倒的多数が核の拡散に賛成である。もちろん例外はあるけれども、民主制が発達した国には核を拡散すべきだと言っている。それによって牽制し合う。それ以外に世界の平和はあり得ない。
もう一つ、NPT条約の第十条には脱退条項もある。簡単に言えば、周辺で危ない状況になれば、脱退して核武装することもあり得る。ついでに言うと、拉致問題は二国間協議、核問題は六カ国協議。このセパレーションが徹底的な間違いである。簡単に言うと、拉致問題は最初から六カ国協議でやるべきだった。なぜならば核武装はある条件を満たせばどこの国でもやる権利がある。それは侵略的な国でないこと。しかし北朝鮮はそういう国ではない。その証拠の他ならぬ一つが拉致問題である。核武装と密接に関係している。そういう論理が外務省にも内閣にもない。
今からでも遅くはない。国際会議の場で堂々と、NPTを脱退する資格は何か、核武装する資格は何か、その国は侵略的な国ではないという歴史的実績があるならば、核武装をする資格があるということを議論すべきである。実際に核武装するかどうかは別である。
それに、僕がいわゆる親米保守の論者たちを許せないのは、なにはともあれ国家は安全と生存だといって憚らないこと。違うでしょうと言いたい。もちろん、政治は生存と安全を重んじなければならない。しかし、それだけではない。まともに歴史を振り返れば、やはり国家国民の名誉、自尊と自立をいかに保つかということが大事である。従って、経済学のようなカーブを書けば、自尊と自立が高くなれば、もちろん安全と生存も高くなる。国民の防衛意識も高まる。
ところが、あまりにも安全と生存に拘れば、自尊と自立を抜きにして安全と生存を計ろうということで、属国に成り下がってしまう。安全と生存さえ確保できれば、アメリカのテリトリーになってもいいのかという話である。
でも、日本人はまるっきりバカではない。どなたかが巧みにこの問題に切り口をあたえてやれば、あっという間に覚醒する可能性はいつでもあると思っている。
◆地域復興の方法論
最後に地域復興の話をしたい、政治家としては選挙区がらみでいえば地域振興は最大の問題と言える。そこでまず言っておきたいのは、言葉の問題として、ローカルとリージョナルをきちんと区別していただきたいということだ。
ローカル(地方的)という言葉は、経済学のテキストに出てくるが、「地方の時代」と言いながら、英語を持ってくること自体が僕に言わせればおかしい。リージョナルというのは地域的。地域というのは経済から、政治、社会、文化にいたって、ある一つの歴史的な形でのまとまりを持っている。その意味でのコミュニテイ(共同体)である。戦後六十年間、日本人は共同体が嫌いになっている。それで片仮名にしている。
コミュニテイというのは二つの側面がある。歴史的共同体としてのベースがあって、その上に個人間の利害の調整がある。その二重構造を忘れて、単に独立した個人がお互いに契約を結び合うアメリカのような社会であると考えている。その意味で地域を、ローカルではなくリージョナルなエリアをどういうふうに再興するかということを考えている。
エコノミストというのは、字引で調べると節約家という言葉ある。ところが日本のエコノミストは、考えることを節約している。それにスペシャリズム、専門主義を調べてみると、specは見える、a spectは、物事の側面という意味がある。マーケットならマーケットの側面だけを取り出して、それをさも全体であるかのように喋るのが専門家。だとすれば専門家の言うことは間違って当たり前だ。
それを前置きにして結論を言うと、市場は大事だけれどもマーケットを囲む条件がある。市場が物々交換なら、政府が関与する余地は何もない。でも今の市場は、マネタリーな貨幣を供給している。そこで貨幣は誰が供給し最終的に管理するのかということで中央政府が出てくる。従って市場経済が貨幣的な取引である以上、必ずや公的機関の関与なしにはマーケットは成り立たない。そんな常識すらエコノミストの頭の中にはない。
ハイエクはこの問題を考えて、最終的には中央政府の中央銀行を廃止せよと言った。そうすれば政府のマーケットへの関与がなくなる。なかなか正論であるが、僕は間違っていると思う。これに拘るとマーケットは民間のものになるというウソ話を日経新聞と一緒になって延々とばらまいてきた。
通貨の信用もマーケットのものではないという意味において、実はパブリックなものである。それを権力powerについていえば、例えば明治で言えば殖産興業とか、富国強兵とか、ある国家的な理念が示されなければマーケットだって動きようがない。今のロシアが典型的。要するにはっきりと資源政策を国家が管理するという下で民間の企業も動きようがある。同時に、国策の全体的な方向を示すのが政府の理念であって、それなしにマーケットが闊達に動くという話はおかしい。この国の全体経済がどっちに進むのかのビジョンがなければ、個別産業も個別企業も長期計画を存分に立てられない。そういう意味で、マーケットでも理念と国策が大事だということである。
いま日本に不足しているのはpublic activity(政治では決断力・説得力/国家理念 ・国策体系、経済では通貨・信用/資源・エネルギー、社会では都市・田園/家族・環境、文化では研究・開発/学校・教育)。そして今の日本社会がガタピシきているのは、マーケットの効率がどうのこうのではなくて、それを下支えするパブリックが崩れているからである。
「官から民へ」というのがとてもいいことのように言われているけれども、こんなおかしな話はない。本当によくしようと思えば、何でもかんでも官を捨てて民につくのではなく、官民提携、PPP(public-private-partnership)こそが大事だ。官民が提携し、PFI(public finance initiative)、元々民間の資金をパブリックな目的に使うファイナンスの特徴を生かして、地域のパブリックな事柄、活動のために資金を活用する。すなわち官民提携を踏まえながら、民間資金の導入を考慮し各地域で具体的にパブリック・アクションを組み立ててゆく。そういう段階に来ている。
十数年壊してきた公共性、歴史社会としての共同体を、国柄とともに復古させる。ぜひそのために戦っていただきたい。
《質疑応答》
●質問 先生の最初の指摘を聞いていて、西田幾多郎先生の「維新とは復古だ」を思い出した。教育基本法改正、憲法改正で戦後レジームを脱却するためどういう価値観を入れたらいいか。それと愛国心について総理の答弁はいつも、国には国民と領土と統治機構があるけれども、愛国心の対象は統治機構ではないという。それが心の中にすとんと落ちない。その点について、先生のご意見をお聞かせ願いたい。
○西部 答えになっているかどうか分からないけれども、僕はふだんから気を付けているのは、歴史という言葉と、慣習、文化という言葉と、そして伝統という言葉、これらをきちんと吟味して、巧みに使い分けるということ。
まず、歴史というのは英語でhistoryと言うけれども、これはstoryと同じで、物語という意味。従って、歴史とは何かといえば日本国民が自分たちの先祖の流れについてどういう物語を基本的に共有するかということ。要するに歴史とは国民共通の物語であると。そういうことを押さえた上で、慣習とは何か、文化とは何かといったら、これは実態を指す。従って、安易に「慣習を愛せよ」とか「文化を愛せよ」などとは言えない、厄介なものだということを知らなければならない。
例えば、日本の文化として、お茶、お花、能、歌舞伎といったものがよく挙げられるけれども、もちろん僕も素晴らしい能は数回見たことはある。しかし、一方では大したことない能もある。歌舞伎も同様で素晴らしいものもあるけれども、一時は農協団体のおじいさんおばあさんが弁当を持ち込んで騒いでいた場所と化していたという実態がある。お茶にしろお花にしろ、もちろん素晴らしいものもあるけれども、一方ではその辺の有閑マダムが、美意識のかけらもなく、ただ暇を持て余してやっているという実態もある。だから、そんなものを文化として、例えば教育基本法に「文化を愛せよ」などと書かれたら困る。これは慣習も同じで、慣習には良習と悪習の両方が混在している。従って、「慣習を愛せよ」と言われても、悪習まで愛するのは無理ということになる。要するに、文化という言葉、慣習という言葉については、相当厳重に警戒する必要がある。
ところが、伝統となると、何が良習で何が悪習であるかということをその時々にきちんと区別する、その基準となる。これはバランスの問題で、科学者に聞いても分からない。これは歴史の叡智wisdomとしてしか示されない。こういうものを指して伝統と言うのであれば、私は「日本の歴史と伝統を愛する」と明記するでしょう。その辺の感覚について、日本の保守派はもっと鋭敏であっていただきたい。
●質問 非核三原則については、まったく先生の仰る通りだと思うが、残念ながら、政治家としては、先生の言ったとおりに言うととんでもないことになるという現実がある。
○西部 僕はここしばらくは、やはり政治家はそういうことは言わないでおいてもらいたい。その代わりに、他には何の役にも立たない知識人が、あちこちで盛大に言いまくるべきだというのが僕の考え。知識人というのはそのために存在している。知識人というのは、別にモノを作ってはいるわけでもないし、政策について何の責任を持っているわけでもない。だから、せめて本当のことぐらいは言わなくてはならない。
●質問 今日のお話を聞くと、日本が日本であるためには何が必要かということ、やはりそれを勉強しなければならないと思う。
○西部 僕の言いたいのは自分の主張を持つということ。例のイラク戦争のときに、日本の国家に自尊と自立の気持ちがあれば、こんなダーテイ・ウオー、侵略戦争には参加すべきじゃないと頑張った。でも最近は、アメリカ国内ですら、だいたいその辺で意見が一致している。しかし日本では、まるっきり「知らぬ顔の半兵衛」。あれはアメリカの侵略戦争だと言った途端に日本では立場を失うことになる。核武装論も同じ。
今の段階では、政治家の皆さんは言わない方が賢明だと思うけれども、真実はそういうこと。いずれはアメリカについていけば安全と生存が大丈夫だということ自体が、怪しげになるだろう。向こうの政権が代わればどうなるか分からないし、それどころか、その間にどんどん日本という国は名誉をなくしている。そういうことを考えたら、政治家は当面はできるだけ慎重に、あまり本音を言わずに、でも、どこかでさきがけて言うのだという構えは忘れないでいただきたい。(文責・正しい日本を創る会事務局)